尊王攘夷と公武合体について調べてみたので。(後編)

おはようございます。カメさんです。  ⇒前編はコチラ

桜田門外の変の後、朝廷内では尊王攘夷派(急進派)と公武合体派(保守派)との間で論争が巻き起こります。

尊王攘夷派(急進派)…天皇を支持し、外国からの侵略を排除しようという考え。
⇒殆どの日本国民は尊王思想を持っている。(幕府も天皇の下で政治をしている。)当時の孝明天皇が攘夷寄りの立場であったことを踏まえ、幕府を倒すスローガンとして『尊王攘夷』という言葉が叫ばれるようになりました。
長州藩、土佐勤皇党など。

公武合体派(保守派)…日米修好通商条約を経て亀裂の入った幕府と朝廷の関係を修復し、有力諸藩とも結束して諸外国への対応を強化していく考え。
⇒開国して欧米の最新技術を導入し国力を高め、朝廷&幕府&諸藩大名が一丸となり外国の脅威に対応していこうとしたのですね。
会津藩(新選組、京都見廻組)、薩摩藩など。

公武合体を目指すべく、まず幕府は孝明天皇の妹である和宮を徳川将軍家茂の正室へと迎えることで権威回復を目指しました。同時に朝廷に対して攘夷の実行を約束しました。
⇒しかし実際は、孝明天皇が攘夷派から開国派へと変わるのを期待する時間稼ぎであったと言われています。

一方で朝廷内では尊王攘夷過激派が多数を占めるようになり、幕府に対して条約の即時破棄と攘夷の実行を強く求めるようになりました。尊王攘夷過激派は『天誅』と称した要人暗殺テロを繰り返すようになり、京の治安も急激に悪化します。
⇒これに対応すべく幕府側が結成した治安維持組織が、新撰組(壬生浪士組)や京都見廻組です。
さらに文久3年(1863年)5月、長州藩が関門海峡を通過する外国船に対して砲撃を仕掛ける攘夷を実行します。これが下関戦争です。外国船からの反撃を受け、長州藩の海軍と砲台は壊滅的被害を受けて惨敗しました。

尊王攘夷過激派は幕府への攘夷委任から、天皇自らが軍を率いて攘夷を行う『攘夷親征』へと方針を転換し強行しようとします。これに危機感を強めた薩摩藩は会津藩と結託し、クーデターを仕掛けて朝廷内から尊王攘夷過激派を一掃します。これが文久3年(1863年)八月十八日の政変です。その後池田屋事件、禁門の変を経て長州藩を始めとする尊王攘夷過激派は急速に力を失います。

こうして公武合体派が朝廷内で力を取り戻しますが、依然として孝明天皇は攘夷の意向を貫いていました。
朝廷が任命した有力諸藩の大名5名と徳川慶喜による参預会議が開かれることになりましたが、開国を主張する諸藩大名と、朝廷と約束した攘夷を果たすべく横浜港閉鎖を主張した徳川慶喜との間では話は纏まらず、僅か2か月で解散。公武合体は何の成果も出せずに失敗に終わります。
⇒もしこの参預会議の場で徳川慶喜が諸藩大名と協調して開国側へ立ち回っていれば、歴史は大きく変わっていたかもしれませんね…。


長州藩は下関戦争を経て攘夷が不可能であることを思い知らされ開国へと転じていきます。そして公武合体の失敗で徳川幕府に見切りをつけた薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬の仲介を得て長州藩と薩長同盟を締結します。外国との戦争での教訓から最新の洋式軍備を導入した薩長連合軍は、一気に倒幕開国へ進んでいくことになります。戊辰戦争の始まりです。

コメント