尊王攘夷と公武合体について調べてみたので。(前編)

こんばんは。カメさんです。前回に続いて幕末ネタになります。

嘉永6年(1853年)、三浦半島南端の浦賀に黒船(アメリカの軍艦)が来航。アメリカは日本に開国を要求してきました。徳川幕府は外国との軍事力の差が大きいことに気付いたので、外国の技術を取り入れて国力を充実させる為に開国を決意します。
その翌年の嘉永7年(1854年)には日米和親条約が締結。かくして200年以上に渡った鎖国政策は終わりを告げます。その後、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとも同様の条約が結ばれます。
国内に外国人が入ってきたことに対して恐怖を感じた民衆は、これを排除(攘夷)しようとします。そして当時の天皇=孝明天皇も攘夷の意向を持っていました。

安政5年(1858年)にアメリカとの貿易を認める日米修好通商条約が結ばれます。しかしこの条約は外国人を日本の法律で裁けない、関税を日本側で決められない等、不平等な内容のものでした。
※この不平等条約は、大日本帝国憲法が公布され、日清&日露戦争を経て日本の世界的地位が向上した後の明治44年(1911年)日米通商航海条約締結まで効力が続くことになります。
その上条約調印を当時の幕府の大老井伊直弼が天皇からの勅許を得ずに強行したことも問題となりました。さらに井伊直弼は幕府を批判する攘夷派の勢力を一掃するべく弾圧を行います。安政の大獄です。
徳川幕府、そして井伊直弼に対する反発が日増しに高まり続ける中、天皇を第一に敬い、外国からの侵略を防ごうという考え方が急速に広まっていきます。これが『尊王攘夷運動』となります。

安政7年(1860年)井伊直弼は水戸藩・薩摩藩の浪士によって急襲、暗殺されました。桜田門外の変です。

後編に続きます。

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